久々にやってしまった『ぎっくり腰』
3~4年ぶりでしょうか。
毎月定期的に通っていた整体ですが、ここ1か月以上おさぼりしたことが仇となりました。
そろそろ行かなくては・・・と、日曜日に予約していたのに、予約2時間前にビリビリビリと腰部に稲妻がどっかーん。チーン。
起床時から腰が重たくて嫌な感じがあったのですよね。
それなのに長時間犬とお散歩したのがまずかったのか、何なのか。
先月から息子の大学受験がスタート。
大学受験って長丁場で、1月15日の共通テストから始まり、2月25日~26日の2次テストまで1か月以上も続きます。
第一志望に受かって欲しい、
自力で合格を掴んで、
自信を持って人生を歩み始めて欲しい。
親は祈るしかなくて、
犬と一緒に近所の神社まで足を延ばしたところ、グリコのおまけが『ぎっくり腰』
きっとこの代償で夢は叶う
と信じることにしましょう。
そういえば、今日は2月1日。
東京の中学受験日ですね。
今年の受験は落ち着かない日々が続いていますので、受験生とそのご家族は気を揉んでいることと思います。
無事に終わるといいですね。
でも、それだけ気になる対象がいるというのは、なんて幸せなことだろうとも思えます。
子供に感謝しつつ、静かに日々を過ごしております。
ところで、ぎっくり腰になった直後は身動きできませんので、安静にしているしかないのですが、これが結構キツイ
寝返りも立ち上がることも困難となってしまい、要介護生活ってこういうことなのね
お年寄りに優しくしなくっちゃ!と体感したのでした。
今年はしっかり筋トレとストレッチをやるとしましょう。
本日は本題の「自足」について書こうと思います。
年始にフィーバーした養老熱で思ったこと。
養老先生は、坂口恭平さん(作家・建築家)について度々触れていますが、坂口さんは躁鬱のようで、そのような自分と折り合いをつけるために苦労してきたことを結論づけると、
1)居心地の悪いところから立ち去る。
2)資質に合わないことはやらない。
ということらしいのです。
居心地の良い状態というのは、頭で理解するものではなく、身体の調子が“良い”ということに他なりません。
カラダが心地よいと感じることをしていれば元気でいられるのに、
快適ゾーンから外れているのに、いろいろ考えすぎちゃって無理してしまうと、その誤差の蓄積が“ストレス”となってしまうのでしょうね。
よくありがちな例を挙げると、
・性格や価値観の不一致を押し殺し、家柄や収入など条件を優先してしまった結婚
・生理的に合わない家族でも“家族”という理由で無理に合わせて付き合うこと
・好きでもない仕事を、収入のために続けていること
・家族のためという理由で通勤地獄に耐えること
・ママ友さんとの無理なお付き合い
・化粧は身だしなみという強迫観念から、毎日ファンデーションを塗っていること!(本当は塗りたくないのに)
合わないことはやめて、みんなが「自足」してくれれば社会はもっと落ち着くんじゃないかと。
何で必死に余計なことをしているんだろうと、坂口さんは言うそうです。
人間形成途中の子供が、好き嫌いだけを行動規範にしていいかどうかは疑問ですが、
いい歳した大人は、自分の価値基準をもとに行動し、「自足」することに大賛成です。
養老先生は、
「自分にとって適切なヒトとしての生物学的状態を現代人の多くが把握できなくなっている」と仰っています。
快適か不快かの判断ができないと!
というか、身体感覚に基づいて行動できないってことなんでしょうね。
頭(理屈)で考えてしまうから。
なるほど~
スキンケアについても「自足」していない人が多くて、何かおかしいな??と感じていたのですが、そういうことなんだと思いました。
自分の肌にとっての「快適」が、良く分からなくなっている人たちがいて、「正しいスキンケアを教えて欲しい」と当院を受診されます。
スキンケア情報が多すぎて、情報洪水の中で溺れている人が多いこと
万人受けする正しいスキンケアなんてものはないのだから、
自分にとって快適か不快かで判断すればいいだけのことなんです、本当は。
だから私は、「その人にとって正しいスキンケア」をお伝えするようにしていますが、目指すところはその人が自分で判断できるようになること。
「これでいいんだ~」と自分で判断できるようになって欲しいのです。自足して欲しい。
こういう身体感覚を身に付けるには、やはり子供の頃からカラダを動かし、いろんな経験をすることに尽きると思います。
都会暮らしで、ゲームや塾ばかりの生活をしていては、身につかないんじゃないかなと思います。
子供同士の方がいろんな人たちとフラットに付き合えるから、自分と異なる環境の人たちと接し、多様性を肌で感じることは、身体感覚を磨く上でも大切なのではないかと思います。
自分の快適を求めるなら、他人の快適も認めてあげる寛容さも必要です。
他人の「自足」を一緒に喜んであげられるようなゆとりが持てたら、幸せな社会になれそうです。
私の兄は、いわゆる「サウナ―」だ。
①サウナに入る⇒②水風呂に入る⇒③外で風に当たってクールダウン
このサイクルを繰り返すらしい。
たまに温泉に一緒に行くと、忙しそうにサウナばかり入っている。
汗をかくのはもちろんのこと、脳が解放されて快感を味わえるらしい。
私の患者さんにも、数名「サウナ―」の人たちがいる。
私は女優ではないのだが、汗をかかない。
良いのか悪いのか。
対外的には涼しそうな顔が出来るから長所と捉えるが、健康を考えると発汗による体温調整不全が気になる。
では、汗でもかいてみようかといざサウナに入ってみるのだが、10分経っても皮膚はさらさら。
私の汗腺よ、働いておくれ
粘って粘って、少々ジトッと汗ばむ程度のお湿りを感じつつ、滝のような汗にはまだまだほど遠い。
そんなに長時間サウナでじっとしていられない。
この話を「サウナ―」の患者さんに話したところ、
「先生にサウナは無理だよー。海に行ったらゆっくりビーチで寝ころんでいられないでしょ?すぐにバナナボートとか乗っちゃうタイプでしょ。」
その通り。
サウナはカラダに良いのだろうか。
感覚的に良い気がする。
私もダラダラ汗をかいてみたい。
水風呂にバッシャーンと入ってみたい。
サウナの快感というものを味わってみたい。
ただ、その欲求が強烈なものでないから、温泉に行った時にサウナがあればチャレンジしてみるか、その程度のモチベーションである。
基本的にゆっくりできない性格だから、難しいのかもしれないが、またのチャンスに期待している。
一昔前、ドライサウナに入り過ぎて肌がカピカピに乾燥している人を何人か診察したことを思い出した。
熱と低湿度は乾燥肌の大敵だ。
また、「酒さ」という赤ら顔体質の人は、激しい温度変化で赤みが悪化するのでサウナは控えた方がよいだろう。
普通肌の人であれば、週1回程度入るのであれば問題ないと思う。
汗に含まれる乳酸ナトリウムという成分に保湿効果があるらしく、汗をかく習慣のある人は肌が潤うという実験をテレビで見たことがある。もちろん皮膚の上に汗を放置しては刺激になってしまうので、すぐに流すか拭き取ることが大切だ。
サウナの是非を書きたかったわけではなく、「自足」について私の考えを書きたかったのだが、文章が長くなり過ぎたので来週へ続く。
書店で「ヒトの壁」(養老孟司著)に目が留まり、思わず手に取りました。
養老先生と言えば2003年に「バカの壁」が大ヒットしましたね。
もともと東京大学の解剖学教室の先生であります。
当時、近所の書店でこの挑発的なタイトルにググっと惹かれ、思わず手に取った光景が今でも忘れません。
家族で回し読みしました。
時は遡ること30年ほど前。
大学時代に縁あって、とても良くして頂いたP先生がいました。
私にはいつも仲良くしていた4人組がいたのですが、このP先生は私たち4人を平等に可愛がって下さいました。
学生なのに、アトランタで開かれた学会にまで連れて行って下さり、ゴルフやスキーまで。
※援助交際ではありません
P先生の大学時代の同級生が養老孟司先生だったので、よく「養老が、養老が、、、」と話しを聞いていただけに、私は養老先生にお会いしたことも面識もないにもかかわらず、勝手に知り合いのような気分になっています。
久し振りに養老先生の本を拝読しましたが、その知性には驚くばかりです。
「興味ない」とか言いながら、政治・経済・歴史・哲学・美術・古典などあらゆる分野のことをよく知っていらっしゃる。
さすが作家、読書量が半端じゃない。記憶力も凄まじい。
また最近の若い人の活動なんかもよくご存じで、脳の活動が戦前から80年以上連続性を感じるのです。
全く老化していない、どんな脳みそしているのでしょうか。
養老先生はもう人生を、世の中を俯瞰しちゃっていますから、ズバッと意見を述べるところが清々しい。
先生曰く、『「自然」っていうのは、要するに人が意識的に作っていないもの』らしいです。
我々美容医療に携わる者の間でよく耳にする言葉、「自然な美しさ」とは何でしょうか?
顔の造作を変えるような、医学的介入を行って形成した顔に「自然な美しさ」なんてあるわけないってことですよね。
私たち美容皮膚科が行うシミ取りやシワ治療も「自然な美しさ」とは言えないのでしょうか。
いや、私の解釈では、「なんかいじったな(自然ではあり得ない)」という違和感を感じた時点で、もうそれは「自然美」ではなく、「人工美」と言ったらよいのではないだろうか。
しかし、私たちの業界では「人工美」という言葉は決して出てこない。
なぜだろう。
それは、日本人の精神性の中に、八百万の神とか自然の中で生かされているといった感覚が備わっているためではないだろうか。
頑なに「自然な美しさ」を強調しながら「人工美」を量産するから違和感を感じるのだろう。
私には「人工美」が美しいと思えないし、興味ありません。これは好みですけど。
東京なんか人工物だらけ、ネオン輝くビルディングをバンバン作っている。
全然美しいと思わないけれど。街並みが揃っていないし。
やっぱり海とか山とか、ド田舎の里山なんか目にすると「美しいなぁ」ってしみじみ感じますね。
またいつもの癖で、自分の仕事に紐づけちゃうんですよね。
お顔のお手入れも大切ですが、同時に我々はもっと知性のお手入れをした方が良いのではないかと思っています。
立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏の「哲学と宗教全史」や、
作家で外交官だった佐藤優氏の書籍を読むと、
彼らの溢れ出す泉のような知識に驚愕してしまいます。
知性の壁と進撃の巨人を連想してしまいます。
久々に養老先生にハマった数日間でした。
明けましておめでとうございます
お正月というのもは、『家族の絆』について改めて考えさせられるタイミングです。
思い返せば20代独身の頃。
両親とどこか初詣に行った時のこと。
視界に入る光景は、子連れの家族ばかり。
「ああ、夫も子供もまだいない私は寂しいものだなぁ」と自分を哀れんだことを思い出します。
微妙な年齢で両親と過ごしていることに、漠然と不安を覚えていたのでしょうか。
※個人の感想です
皆様はどのようなお正月休みをお過ごしでしたか。
私は4年ぶりに夫の両親宅を訪れました。
80歳近いお二人ですが、まだまだ元気です。
2人とも働き者で、せっせと動きます
義姉とも久し振りに再会を喜びました。
私の子供たちも、田舎の家が大好きで、毎年年末から泊まりに行っています。
昨年はコロナで行けなかったので、とても嬉しそうでした。
義両親も義姉も、子供たちや私まで大切にして下さる愛情深い人たちで、山口家は優しく温かいムードに包まれます。
家族っていいなぁ、としみじみ。
それと正反対な私の実家。
母が病気をしてから家族ばらばらです。
仕方ないので、個別に会いに出かけます。
いろいろと複雑な事情があり、温かい家族というものに終わりを告げたようです。
子供の頃は大変幸せな家庭で育ったと思っていましたし、
結婚して子供が産まれてからも、両親は協力的で、働く私を全面的にサポートしてくれました。
母が病気になるまでは
家族1人が病むことで、家族の絆にここまでひびが入るとは、1ミリも想像していなかっただけに、残念です
でも、昔が良かったから仕方ないか、と吹っ切れる気持ちもあります。
禍福あざなえる縄の如し。
幸い、皆精神的に自立しているので、互いの依存心がありません。
別々に暮らしているので、会わない限りは特に問題もなく過ごしています。
母も父も、それぞれ友達に恵まれている様子で、案外楽しそうにやっています。
年老いた両親には、ストレスを溜めないよう、清々しく生きていて欲しいものです。
家族模様は外からだけでは決して見えない問題がいろいろあるものです。
あまり口外しませんからね。
家族について、いろいろ考えさせられたお正月でした。
本年もよろしくお願い申し上げます