知性と品格
当院の使命は「知性と品格ある大人のための美容クリニック」である。
20年前、開院当初に掲げたこの使命は、そういうクリニックを作りたいという情熱よりも、経営的な使命というものを明確に言語化しなければならない、という思いで考えたフレーズだった。自分でもよく考えたと思う。
勤務医時代、外来を訪れる患者様の中には、眩しいくらい素敵な女性との出会いがあった。私はまだ20代と若かったこともあり、40代以上の成熟した女性たちから大いに影響を受けた。プライベートでは知り合うことのないジャンルの人たちである。暮らしにゆとりがあるので優しい。仕事では責任のある立場で、精神的にも経済的にも自立している。優雅な専業主婦の方々は、家庭を大切にしながら自分の趣味を謳歌していた。彼女らにとっての美容は息を吸うのと同じくらい当たり前のことだから、美容クリニックがまだ珍しかった時代にも関わらず、お肌の手入れに余念がない。そして無理がない。センスの良い上質な衣服を身に纏い、佇まいや発する言葉の隅々まで美しい。生き方そのものが魅力的である。小娘のような主治医に対しても丁寧に接して下さった。私はこのような美しいマダムを相手に美容医療を提供していきたい、と思った。
自院患者のターゲット層を絞り込む時、「知性と品格」を備えた方々に来院して欲しいと考えた。今思えば「知性と品格」こそ、私自身に足りなかったものであり、最も身に付けたかった無形の価値である。自分とクリニックの使命が一致していたことに今頃気が付いた。気が付くことが出来たのは、インドに行ったお陰である。(詳細はまた今度)
私は小さい頃から活発な子供で、良くカラダを動かし遊んでいた。何でも出来るようになるのが嬉しくて、スキルや技術の習得に勤しんだ。テニス・ゴルフ・スキーなどスポーツはもちろんのこと、ピアノも続けた。受験勉強や英語学習にも励んだ。留学もした。そのような機会を与えてくれた両親には感謝している。しかし、根っ子の部分が山猿なのである。気性は荒く、話し言葉も強め、動きも雑だ。階段の上り下りや扉の開閉は音を立てず静かに
と、いつも母親に注意されていた。いくら注意されても、山猿の勢いは止まらなかった。
一方、母はいつも上品だった。小さい頃から友達に、「麻ちゃんのお母さんは上品だね。」と言われ続けていた。褒められるのは嬉しかったが、自分も真似しようとはちっとも思わなかった。品が良いより、豪快でいろいろ出来たほうがいいじゃないか!くらいに考えていた。知り合いからは、「お母さまはあんなに上品なのに、なんであなたはこんなにバンカラの?」と言わせしめたこともあった。女性に対してバンカラなんて言うんかい?それほど野蛮に見えたのだろうか。
こんな山猿も、大人になり、母になった。美容の仕事をしていると、「美しいとは何か」について、深く深く考えるようになった。美容外科学会に参加すると、症例スライドをたくさん目にするのだが、全然美しくない人がたくさん写っている。これが本当に美容医療なのだろうか、と疑いたくなる。中顔面短縮だの小鼻縮小だの重瞼術だの美容整形手術をしても、「これ、きれいになっているの?」と納得できない。要するに、品がないのだ。本人を見ているわけでもなく、2次元のスライドで伝わってくる品のなさって、いったい何なのだろう。
美容医療に従事して26年。たくさんの患者様に向き合ってきた。いろいろな大人と出会ったが、「素敵だな、私もこんな大人でありたい」と真似したくなるポイントは、はやり『知性と品格』なのである。品とは、相手へ配慮できることであり、マナーを守ることだ。相手の領域に土足で踏み入ることはしない。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花・・・研修医の時、先輩医師に教わったことわざだが、このようになって欲しいという意味だったのだろうか。静かな声で、丁寧な言葉を話す人。自分自身がそのようになりたいし、スタッフにも求めるし、知性と品格を備えた人たちが安心して通えるクリニックでいることが、我々の使命なのだと自覚している。
そして、治療のゴールは「品のある顔」に尽きる。品のある顔とは、品のある表情ということだ。それは美容医療だけで作られるものではなく、内面からにじみ出てくる人生経験や心持が大きく影響するのだろう。
過剰な美容医療を施された人工的な表情には、品が失われてしまうと感じている。今朝、広尾の交差点で信号待ちをしている時のこと。後ろから大きな声で話す隣国の言語が聞こえてきたので、ふと振り返ると、二度見したくなるほどの不自然な整形顔がそこにあった。これは私の望む美容医療ではない。
知性と品格を備えた顔。
これが当院の目指す美である。
